私は、戦後10年程の時期に生まれ、高度経済成長の中で、自国の良さに目を抜ける事も無く、欧米の音楽エンターテーメントに興じ、イケイケの青春を謳歌して生きてきました。眠る事さえ忘れてしまう程、よく働き、よく遊び、とにかく人生をハチャメチャに生きてきました。思えば、なんと厚顔無恥な自分であった事でしょう。そんな中、1999年、私に大きな転機が訪れました。それは、鹿児島の知覧に遊びに行った時、偶然訪れた特攻平和祈念会館で、英霊の方々から無言のメッセージを受け取った時でした。沢山の笑顔の遺影と、美しい文字の遺書の数々。それを目にした時、堰を切った様に、止めどなく流れる涙の中で、私は映画<マトリックス>の主人公の様に、長い長い眠りから覚醒しました。
「肩で風切って、偉そうにマスコミ面をし、私は、何をやってきたのだろう…」
自分の愚かさと、弱さに愕然とし、地中深く潜ってしまいたい程の恥ずかしさに苛まれたのでした。そして考えました。「盲になっている若い人にこの真実を伝えなければ…」と我が罪滅ぼしもあって書いたのが「流れる雲よ=飛行機雲」でした。
当初ラジオドラマとして書き下ろした脚本の監修をお願いしたのが、東正知さん(当時FM鹿児島の放送部長)でしたが、それはただの巡り合わせではありませんでした。なんと東さんのお兄様と、私の叔父が、同じ戦艦羽黒の艦橋(ブリッジ)の中で、同日に戦死していた事が判ったのです!。一緒に写っている二人の写真を見た時、私は言葉を失いました。どれだけの確率で、こんな偶然が起こるのでしょうか?私は、その時、天からの勅命を感じる事が出来ました。
又、私の高曾祖父は、東京奠都の際、明治天皇の江戸行幸に従い東京に来た神祇官で、神田明神の初代宮司です。明治維新の動乱期、岩倉具視や、木戸孝允達と、神道の国教化(国家神道)を推し進めた人間の一人でした。今、明治天皇の玄孫でいらっしゃる竹田恒泰先生に、この作品を応援して頂いている事も決して偶然とは思えず、日々『御陰様』を感じ、すべての出来事に背筋が伸びる思いであります。
今年25年目になる「流れる雲よ」と言う作品は、そこに込められた命の輝きと、魂の叫びによって、命を宿し、独自の意志を持った作品に育っています。
作品そのものが、大志を抱き、関わる人をも選び始めている気がします。やがて、生みの親である私の事も振り切って、祖国の為に進んでゆくのかも知れません。それは寂しい事ですが、この作品が、大和民族の血を蘇らせ、誇り高き日本人の魂を呼び覚ます一つの鍵になれるのなら、作者として、こんなに幸せな事は有りません。それこそエンターテーメントを仕事に選び、生きてきた甲斐があるというもの。でも、出来れば私自身も命ある限り、この作品と共に生き、百年・二百年先の日本の為にも役立つ作品になる様、更なる磨きをかけ輝かす役割を担いたいと、若いスタッフ達と、決意を新たにしております。
「肩で風切って、偉そうにマスコミ面をし、私は、何をやってきたのだろう…」
自分の愚かさと、弱さに愕然とし、地中深く潜ってしまいたい程の恥ずかしさに苛まれたのでした。そして考えました。「盲になっている若い人にこの真実を伝えなければ…」と我が罪滅ぼしもあって書いたのが「流れる雲よ=飛行機雲」でした。
当初ラジオドラマとして書き下ろした脚本の監修をお願いしたのが、東正知さん(当時FM鹿児島の放送部長)でしたが、それはただの巡り合わせではありませんでした。なんと東さんのお兄様と、私の叔父が、同じ戦艦羽黒の艦橋(ブリッジ)の中で、同日に戦死していた事が判ったのです!。一緒に写っている二人の写真を見た時、私は言葉を失いました。どれだけの確率で、こんな偶然が起こるのでしょうか?私は、その時、天からの勅命を感じる事が出来ました。
又、私の高曾祖父は、東京奠都の際、明治天皇の江戸行幸に従い東京に来た神祇官で、神田明神の初代宮司です。明治維新の動乱期、岩倉具視や、木戸孝允達と、神道の国教化(国家神道)を推し進めた人間の一人でした。今、明治天皇の玄孫でいらっしゃる竹田恒泰先生に、この作品を応援して頂いている事も決して偶然とは思えず、日々『御陰様』を感じ、すべての出来事に背筋が伸びる思いであります。
今年25年目になる「流れる雲よ」と言う作品は、そこに込められた命の輝きと、魂の叫びによって、命を宿し、独自の意志を持った作品に育っています。
作品そのものが、大志を抱き、関わる人をも選び始めている気がします。やがて、生みの親である私の事も振り切って、祖国の為に進んでゆくのかも知れません。それは寂しい事ですが、この作品が、大和民族の血を蘇らせ、誇り高き日本人の魂を呼び覚ます一つの鍵になれるのなら、作者として、こんなに幸せな事は有りません。それこそエンターテーメントを仕事に選び、生きてきた甲斐があるというもの。でも、出来れば私自身も命ある限り、この作品と共に生き、百年・二百年先の日本の為にも役立つ作品になる様、更なる磨きをかけ輝かす役割を担いたいと、若いスタッフ達と、決意を新たにしております。